【キナリ★マガジン更新】成功しすぎると逆に不安になるので、ええ塩梅で削いでくれる栃木
こんにちは。
東京のホテルが狭くて高くて悔しいので、栃木に泊まった女です。
新幹線代とホテル代をあわせて、東京で泊まるのとほぼ同じ。そして、栃木行きの新幹線って、夜中までぜんぜん走ってるのだ。
渋谷での仕事の打ち上げにも最後まで参加し、
「い、いまから、栃木に……?」
困惑と畏怖の混ざったまなざしで、関係者に見送られた。栃木に泊まるというだけで注目されるので、てっとり早く主役になりたい人はおすすめ。
一時間ほど、座って爆睡してたら、そこはもう栃木!
4月は寒いかなあと思ってたけど、東京よりちょっとだけ涼しいぐらい。わたしは駅にほど近い、温泉つきのビジネスホテルへ急いだ。
仕事して帰るだけで、温泉が待っている!
こんなにもワクワクする響きがあるってのか?
はやる気持ちをおさえ、チェックインした。
よれよれのスーツを着たおじさんがフロントの奥から出てきて、最後の1、2適を絞り出したかのごときギリギリの愛想で迎えてくれた。
「朝食バイキングは無料です」
ここんとこ、節約で素泊まりが当然だったので、わたしは叫びだしたくなる気持ちをおさえた。
「アメニティは歯ブラシだけですので。お水もご用意ございません。タクシーも呼べません」
最低限ッ!
朝食バイキングがなければ、別の感情で叫んでいた。朝食バイキングが先でよかった。初手がそれならあとは許せる。
鍵だけ渡され、スーツケースをガタコトひきずって部屋に入ると、こぢんまりしてるけどモダンな和室だった。それでも、東京で泊まってたホテルの倍の面積。布団をたためば、もはや広がるのは見渡す限りの楽園。
荷物をおっぴろげるのもそこそこに、大浴場へ駆けた。
ほかの客はおらず、なんと、20人は余裕で入れるであろう湯船が、貸し切り状態だった。気分は石油王。
温泉街と比べたら、色も匂いもぬめりも薄い。贅沢は言えない。仕事終わりで天然温泉に浸かれるというだけで、きもちよさで脳がとろけた。
髪を洗おうとして、シャンプーのボトルがないことに気づいた。
「お?」
使い捨てシャンプーは脱衣所に用意してあります、とのことだった。なるほど。裸のままいったん出たら、フタつきの箱が置いてあった。
“THREEスリー”って書いとる!
すごい。わたしでも知ってるブランドもんのロゴ。これは翌朝、サラッサラになるでえ!ラッキー!
パカッとフタを開けた。
越後製菓の餅みたいな物体が入っていた。
ただの薄い石鹸である。聞いたことない日本の有限会社のリンスインシャンプーの袋も無造作に突っ込まれていた。THREEの箱を流用してるだけだった。
洗って、乾かすと、わたしの頭は放置されたメルちゃんのようになった。ギッシギシ。キューティクルが集団失踪した。
だが、温泉は温泉。湯上がりも体がホッカホッカして、気づいたら、布団で爆睡していた。翌朝の疲れがもう、いつもと全然ちがう。
お待ちかねの朝食バイキング!
長テーブルにならぶ、ソーセージや納豆パックを見ていると、こないだ渋谷で泊まったときは朝定食がパンと卵とベーコンとゼリーで、4000円だったのを思い出す。それが今日は、無料で食べ放題。
調子に乗って、いつもなら食べすぎてしまうところだったが、その心配はいらなかった。
こう……なんか……絶妙に……そこまでおいしくはない……!
だし巻き玉子が、なんていうか、卵液をフライパンで巻いたやつではないというか。この世に生を受けた瞬間に「いいかい?おまえはだし巻き玉子として生きていくんだよ……!」と今際(いまわ)の際《きわ》に母から説得されたような物体なのである。崖っぷりのプライドだけで、だし巻き卵を名乗ってるような健気さ。
しかし、そのおかげで、無用なおかわりをせずに済んだ。朝風呂に入って、腹八分目で飯を食らう。これができるのは大人の証拠である。
夜中にチェックインしたので気がつかなかったが、よく見れば、ホテルには昭和の香りがムンムンしていて、ひなびている……。
いやっ。
これぐらい、ひなびているからこそ、良いのだ。
これが至れり尽くせり、おしゃれで最高かつ温泉つきホテルだったら、働く気なんてとうに失せていた。出張だからこそ、こういうのがベスト。
さて。
昼すぎから編集者と打ち合わせがあるので、東京に戻らねばならん。
せっかく栃木に来たんだから、その前にちょっとお茶でもと思い、とつとつ歩いたらば。
昔ながらの蔵を改造した圧巻のカフェに迷い込んでしまった。なんだこのおしゃれさは。わたしはこういう、古い洋風の建物に目がないのである。
焼きたてで運ばれてくるスフレチーズケーキが、ちょっと、声を失ってしまうぐらい意外な塩味と甘味のツイストサーブでおいしかった。
建物2軒分の客席なのに、人も少なく、長居し放題だった。栃木ってすごい。蔵の窓からさしこむ栃木のやわらかな陽光に、手を合わせた。
コーヒー二杯も飲んでしまったので、ぶるりと震えてトイレに行った。
先客がいて、トイレの扉が閉まっていた。
五分ぐらいだろうか。前で待っていたが、いっこうに出てこない。ドアノブのマークは“赤色”だったが、ひねってみた。やっぱり開かない。
ガチャッという音で、気づいてくれただろうか。
しょうもないことだが、わたしは昔から、トイレの扉をノックできない。なんでだろう。めちゃくちゃ勇気がいる。中では今なにが起こってるかもわからない中で、返事がくるのも申し訳なくて。
十分、十五分が経った。
出てこない。
というか、わたしは不思議なことに気がついた。わたし以外の客はもう誰も、このカフェにいないのだ。一体、だれが入ってるんだ。
店員さんに
「あの……全然出てこないんですけど、大丈夫でしょうか?」
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