声を忘れてしまっても
結婚式の二日前、母が言った。
「パパが夢に出てきた。これで三度目や」
「どんな夢?」
「パパと、奈美ちゃんと、良太が、わたしの作ったごはんを食べてるねん。パパはちょっとよそよそしくて。そしたら奈美ちゃんが『久しぶりやし、緊張してるんちゃう?でも、ママのごはん、おいしいやろ?』って言うて、パパも『うん、うん』って何度もうなずいて……」
そこで目が覚めた、と。続きが見たくてしばらく布団にくるまってた、と。母は笑った。
「結婚式のために帰ってきてくれたんかな」
わたしも笑ったけど、ショックだった。
そっか。
母の夢では、父はまだしゃべってくれるのか。
ええなあ。
父が亡くなって、二十年が経った。
わたしの夢に父が出てきてくれたのは、高校生の頃に、たった一度。その後は、どれだけ会いたいと願ってもだめだった。
原因はなんとなくわかる。
わたしが父のことを、忘れかけているからだ。
中学二年生の六月、学校に電話がかかってきて、父の心臓が止まりそうだと聞いた。そんなアホなと思いながら、病院に着いたら、ずっとしっかりしてたはずの母が「もうあかんねんて」と泣きながら、わたしを迎えた。
あっという間だった。
父に繋がれていた器具や管が外されていくのを見ながら、わたしはボーッと突っ立っていた。
「亡くなったあとも、耳だけは最後まで聞こえてるんですよ。たくさん話しかけてあげて」
看護師さんが教えてくれた。
なんか言わなあかんと思ったけど、なにを言うたらええかわからんかった。
父が亡くなってから一週間、寝ても覚めても、泣きまくった。泣いても救われないわりに鼻が痛くて、目が腫れて、ごはんの味がしなくて、ろくに生活ができないので。
すぐ働きに出なければいけない母が、わたしと弟を布団に招集し、
「パパは海外出張中ってことにして、あんまり考えんとこう」
名案を発表した。
これは本当に名案だった。涙に足を引っ張られることがなくなった。目の前のことだけ考えていればよかった。
わたしは高校生になり、大学生になり、意識の外へと追いやった父のことを、思い出せなくなっていることに気づいた時には、もう遅かった。
顔は写真を見たらギリ「こんなんやったな」って納得する。声は残ってないから確かめられない。
心臓が止まったあとも、父は最後までわたしの声を聞いてくれたのに、わたしは父の声を忘れている。だから夢にも出てこない。
少し前に、実家の父の書斎を片づけた。
北っ側の寒くて暗くて狭いその部屋は、父がいなくなった夜から時が止まっていて、ほこりだらけのベッドの上に服や本が積み重なっていた。
「浅田次郎の本がめっちゃあるやん!読もかな!」
がんばって明るめに手を動かしてたら、本棚の隙間から、父がペンを走らせた手帳や、葬式で飾った遺影が出てきて、グェーッと息を飲んだ。
この部屋では、一瞬でも気を抜いてはならない。ずっと見て見ぬふりで押し込めてきた感情にやられてしまう。
無心で片づけていると、カビまくった黒のバッグを見つけた。ビデオテープの束が入っていた。
これは!と思った。父の声を聞ける。父の声を思い出せる。リビングに持っていって、ボロボロの配線と汗だくで格闘した。無我夢中だった。
「ついた!ついた!」
砂嵐しか映ってなかった。
とっくに磁気はだめになっていた。
がっかりした。
こういう時、父はいつも笑い飛ばしてくれた。
(あほちゃうか!)
口ぐせを思い出すのは簡単だ。言葉を頭でなぞればいい。でもそれがどんな響きだったのかを思いだすことが、とてつもなく難しい。
父の記憶をできるだけたくさん埋めたくて、知り合いに話を聞いてまわった。おもしろくて強烈だった父のことは、みんなが話したがってくれた。
だれのどんな物語の中でも、父はドヒュンドヒュン跳ね回っていた。まるで、今も生きているみたいだった。
「父の顔や声って、今でも思い出せますか?」
わたしがたずねると、
「もちろん。なにもかも奈美ちゃんにそっくりやで!」
みんなそう言った。
喜ばしいことのはずなのに、悲しかった。そっくりな声だと言われても、わたしには、そっくりかどうかがわからない。父が残した言葉を又聞きしても、言葉は言葉のままで、父の声では再生されないのだ。
ごめんなさい。
母たちがこんなにも、父の記憶を大切に持ち続けてるのに。ごめんなさい。わたしだけが忘れてしまってごめんなさい。ひどい娘でごめんなさい。ずっと言えなかった。
わたしは父のことが、大好きだった。
大好きなはずだった。
意識を失う前、父が言ったことが忘れられない。
「おれはもうあかん。奈美ちゃんはだいじょうぶや。おれの娘やから、この先もずっと、だいじょうぶ。絶対にだいじょうぶやぞ」
最期の言葉だった。
これにすがって、今まで生きてきた。
でも、どんな声で父が名前を呼んでくれたのか、どんな声で父がだいじょうぶと言ってくれたのか、どんどんわからなくなってきた。
……父は本当に、そうだったっけ?
ゾッとした。
お守りにしていたはずの父の記憶さえ、はっきりしない。
父はわたしを愛してくれたんだろうか。わたしは父を愛していたんだろうか。確かだった愛おしさまで、ぼやけていく。
結婚式では父に手紙を読もうと思ってたのに、前日になってもさっぱり書けなかった。
伝えたい言葉が見つからない。父が目の前で、どんな声で、どんな顔をしてくれるのか、まったく想像できないからだ。
「あかん……もうあかん……わたしゃ人でなしや……」
実家にいる母からは、弟と一緒にうっきうきで準備している写真が送られてきた。父の小さな写真立ても映っていた。
絶望的な気持ちになって、寝転がって、スマホへ逃げた。かたっぱしからマンガや雑誌をダウンロードして、頭にも入らないのに読みまくった。
とあるマンガのセリフで、手が止まった。
一番先に(記憶から)消えていくのは声なの。あの声がどんな響きだったか、どんなふうに名前を呼んでくれたか……自分の記憶の声と混ざってどんどん曖昧になっていく。
『リエゾンーこどものこころ診療所ー 第181話』より
そのページからしばらく離れられなかった。
噛みしめるように繰り返して読んで、ちゃんと意味を理解できたとき、ぼろぼろ泣いてしまった。
“自分の記憶の声と混ざってどんどん曖昧になっていく”
ああ、そうなんや。
しんどくなった時も、さみしくなった時も、ずっと思い出してきた。父の声で言ってもらった。たくさん助けてもらった。
せやから、わたしの声と混ざってもうただけなんや。
忘れたんとちゃうかった。
「奈美ちゃんはだいじょうぶや」
父の声は聞こえない。でも、わたしの声で、わたしの中に、父の言葉が響いている。わたしはだいじょうぶや。
手紙を書くのをやめて、眠りについた。明日は結婚式が待ってる。